JR西の事故について

先日、某鉄道会社の職員と飲んだ。彼は整備系の技術屋で、JR西の尼崎事故の後だったのでその話にもなったが、「運転手も一面では被害者なんですよ。」と言っていた。

色々面白い話を聞けたが、例えば、彼の会社では運転中は無線に出てはいけないことになっているがJR西では出てもオッケーだそうである。「電車の運転というのは非常に微妙で、オーバーランなんて、大きいのはやはり稀だが小さいのだと日常で起こる」と。「コンマ何秒かで簡単にオーバーランする。」そんな電車の運転中に無線に出るというのはどうかと。う〜ん、そう言えば、車の運転中にケータイはアカンようになったしな...。

運転手の痛いが発見されてすぐ、某テレビでアナウンサーが遺族宅に「取材」していた。インターフォン越しに「息子さんはお父さんに、自身の夢についてどういう風に語っていましたか?」etc.。....オンドレ、何がしたいねん?それを聞いてどうすんねん?それが視聴者が知りたいことなんか?事故原因究明に役立つんけ?息子を亡くした父親に無理してまで聞くことなんか?それでのうても肩身の狭い思いをしてるやろに。いつもながら「とりあえず何か質問せな..」的なアホ質問には畏れ入る。(自身の質問の内容とその結果について吟味した末の質問やねんやったら更に畏れ入るが。)

と、そんな中、この事故に関して読者から投稿が来た。長文なので手を入れるのが面倒くさい(笑)のでそのまま掲載する。興味ある人はご一読を。


☆専門職への認識☆

4月25日の月曜日に起きた、
尼崎でのJR西日本電車による脱線転覆事故について。
世界でも大きく報道された大事件になりました。
アメリカのCNNでは、直後からウェブサイトではトップ扱い。
月曜の朝は各局完全にトップニュースの扱いだった。
NYタイムスでは火曜日になってから一面トップ掲載。
日頃、私などが新幹線の運行技術や、秒刻みの山手線の運行体制について、
それが大きな裏目になった事件。

       たった90秒の為に。。。

 明治時代の日本の鉄道黎明期、
日本は鉄道省による官営化が進められたが、
アメリカは独占禁止法の問題などを経ながらも民営が続いていた。
1950年代に進んだモータリゼーションの波は、
鉄道をあっという間に衰退に追いやってしまう。
全米で多くの鉄道が廃線となる中で、大陸横断鉄道をはじめとする長距離列車については
「コンレイル」という全米での半官半民の会社に一本化され、
それ以外の鉄道事業は大都市の地下鉄を例外として、完全に沈滞した時期を迎えたのだ。

その後、
80年代ごろからは少し別の動きが出す。
大都市圏での交通渋滞や大気汚染がひどくなったために、
大量輸送の手段として、とりわけ都市圏での通勤輸送を担う存在として鉄道が見直されてきた。
その一方で、コンレイルの方は、
航空自由化の中で格安券の出回るようになった飛行機に押されて
慢性的な赤字経営という事態になって行く。
最終的にコンレイルは再分割されて、ローカル鉄道は各地方の民間企業や第三セクターに移行となり、
「アムトラック」という長距離特急サービスを担う会社だけが残った。

 1980年前後に、
ニューヨークと、ワシントンを結ぶ特急列車のサービスは、アムトラック社が継承している。
ニューブランズウィックとニューヨークの間は基本的に複々線で、
この線路を多くの停車駅のある通勤列車の
「NJトランジット」と特急列車の「アムトラック」が共用する、という形が取られている
この「共用」というのがクセモノ。
その結果、この鉄道路線のダイヤはメチャクチャになっている;^^
もちろん、ダイヤの乱れが激しいと言う事でもある。

 いろんな国に行った。
例えば、ヨーロッパなどの発車番線、
複線のトンネルが、来た順に列車を入れるように、
発車番線も基本的に空いたホームに順番に列車を入れるという方式だから、
列車ごとに番線が決まっていない;^^。
その日暮らしで、同じ6時10分発の通勤列車の発車番線が決まっていないで、
毎日入れ替わるから、困った事は多々!
これは航空機にも言える。
予定ゲート変更は日常茶飯事、その為、過去乗り遅れたこともある;^^

基本的に線路に設置されたATSなどはない。
その結果として、まず先頭車両には乗らない。
この状況では当たり前のように保障もなく、事故可能性が大きいからだ。

 今回の尼崎の事故は、
アメリカ人には理解しがたい事だろう。
いわば、鉄道文化が隆盛を極め、洗練を極めた中での
事故、秒単位での正確な運行が可能な技術水準が達成されている中での事故だからである。
中には、
「90秒の遅れを恥と思うのは、タテマエを重んじる日本文化の悪い点だ」
とか、
「厳しい校則の文化と関係があるのかもしれない」
などと、なまじ日本文化を「知っている」つもりになっている学生達。
ステレオ議論と化して良いのか?
先進国日本と言えども、まだまだ文化や人種については理解されては居ないのだ。

 今回の事故に関しては、
民営化後の競争激化などが背景の問題として指摘されている。
そうだろうか?
経済合理性が事故原因ではないのか?
なぜならば、
今回の事故のダメージや教訓も、経済というシステムは何よりもまして
強く企業への反省を迫る効果があるからだ。
事故に関する報道から浮かび上がって来るのは、
収益至上主義や競争至上主義。
しかしそれも主犯ではない。
事故の核心にあるのは、

         「専門職への尊敬を失った社会」

ここではないのか?

 1964年に東海道新幹線が開業したころの日本では、
それこそ「新幹線の運転士」というのが将来の夢、という少年たちがたくさんいたはずだ。
事実、新幹線の開業にあたっては、当時の国鉄は在来線で東京=大阪間を
結んでいたビジネス特急「こだま」など特急の運転士さんの中から、
特に精鋭をよりすぐって、新幹線の運転士を養成したという。
当時の子供たちは、
電車に乗り込むと先頭車両のガラス窓にへばりついて、
運転台の様子を飽きずに見ていたものだ。
速度計の数字だけでなく、運転士がパワーオンにすると
上昇する電力計、逆にブレーキをかけるとその制動力を表示する圧力計のメーター、
その一方で一定の数字をさし続ける架線からの電圧計もあった。
そうした計器類を見ながら、
指さし点呼をして電車を運行する運転士は「カッコイイ!」と思えたに違いない。
デジタルもクォーツもない時代、
その時計は、おそらく内部の歯車に摩耗防止の宝石的価値。
そんな時計の刻む時刻を基準にしながら、
謎めいた符号で書かれた折れ線のダイヤグラムにしたがって
正確に電車が進行していくのは、まるで儀式のようでもある。
そんな風に計器盤などをのぞき込んでいたのは、少年たちばかりではない。
大人たちも、鉄道の人たちには敬意を払っていたのではないだろうか。
そうした社会の敬意を感じる。

         それが「専門職」ではないだろうか?

 60年代から70年代には、
社会には多くの専門職の人たちが、それぞれ誇りをもって仕事をしていたように思う。

そんな専門職の誇りはいつの間にか消えてしまったんだろう?
まず、
共通一次の導入によって、
あらゆる大学に序列ができてしまい、更に学歴がそのまま社会階層、
しかも唯一の階層の指標になって行く。
有名大学の法学部や医学部が頂点であって、
様々な専門職は、そうしたエリートと比較すれば、
「下」であるというような意識が社会の隅々にまで行き渡ってしまった。
更に、
バブル期やバブル崩壊後の民間企業における、過度の総合職重視の風潮が追い討ち。
ただただ自分を殺し、相手の自尊心を計算しながら利害調整のできる
「政治屋」が「コミュニケーション上手」とされてあらゆる組織の中でもてはやされ、

逆に寡黙な専門職は評価されなくなったきた。

           許せん!

更さらに!
組合の衰退という現象もある。
旧態依然とした組合組織は、上の世代の既得権を擁護しながら
時代遅れの冷戦的な言動を繰り返したことから、社会の信用を失って行ったが、
気がついてみると、経営者の言動を正々堂々とチェックする機能はどこにもなくなった。

雇用者と勤労者の利害は、対立するのが当然の中、
お互いに思うことを言い合って合意を形成しなくては、
労使の信頼などあるはずがない!
その合意形成機能も雲散霧消しているのです。

こうした動きの結果、
今回の事故で明るみに出たように、多くの人命を預かり、
専門的な乗り物を高速運転するという社会的に尊敬されるべき専門職が、
会社の中で全く誇りを見いだせない位置に追いやられてしまう。
こんなことが起きてしまうんだ(悲)。

この事故を契機に、
鉄道運転士に対する社会の視線は更に冷たくなるだろう。
何ともやり切れない;^^。

 速度検知の自動化は進めるべきだ。
しかし、どんなに機械の精度を上げても、
どんなに規則を厳しくしたり、免許制を導入しても危険は避けられない。
運転士の専門性に対して、社会が、会社が態度と報酬で報いていくこと。
運転士の側でもこれに見合う運転技術を競って習得すべき。
性善説だけでは社会は動かない。
少なくともこれだけの人命を預かる責任を持った専門職というのは、
認めて評価しなくては危険だと思う。

 人間味の中には、
自分の仕事に関するささやかな誇りがなくてはならない。
誇りをもって仕事をしている人は、
危険を回避する常識的な強さがあると信じる。
もっと言えば、人間の常識を維持できている人は、自他の人命を粗末にはしない。
どんなに管制システムがいい加減で、ダイヤが日替わり、遅れが日常茶飯でも、
とりあえず信用して乗ってしまうというのはそういうことでしょう?
もちろん、日本の定時運行を否定するつもりはない。
正確な運行が安全面でも
正確さに直結するのであれば、日本の鉄道システムはアメリカに比べて、
100年分以上進んでいると言っても良いかもしれない。
とにかく、問題は運転士さんが誇りを感じ
て運行できるかどうか、ということだと思うが。。。

 80年代以降、
急激な変化により日本に比べると、
アメリカではまだ大組織における専門職が誇りを持ちだした
だが、今や正にその専門職に対する「切り崩し」が進んでいるのもアメリカです。
ビッグスリーと言われた自動車メーカーでは組合の強い、
したがって人件費の高い工場は丸ごと閉鎖する、
そんな荒療治を続けているのだ。

 4月27日水曜日、
ブッシュ大統領が夕方のゴールデンタイムにTV会見をして、
「年金支給額のカット」を示唆するような内容を含む改革案を提示、
波紋を広げています。
老後の人生設計における「セーフティネット」を明らかに外しにかかっている、
そう言われても反論できない動きだからだ。
ブッシュ政権は説く

       「オーナーシップ社会」というのは、
   国民一人ひとりが経営者のような独立の気概を持って、
      大きな政府に頼らない社会、というイメージ。

それだけ聞けば結構な話にも聞こえます。
だが、実態としては、労働集約型の大規模製造業、大量輸送を前提とした
公共交通機関などは、そんな思想では支えられないと思う。
旧態依然とした組合では機能しないにしても、明らかに利害が相反する経営側と、
専門職の間で何らかの合意形成システムが求められる。
また、一定程度以下の年収になるような職種が、国内に残るのであれば、
また、ある職種が大きな変化の波にさらされるのであれば、
何らかのセーフティネットは必要だろう。
同じような制度面での動揺は、日本でもあるようだ。
今週発表された「労働基準法の改正の方向性」では、
時間外手当ての適用除外を広げる、
つまり管理職でない人でも時間外手当てを払わなくても構わない、
という範囲を広げるという案なのだ。
こうした動きに関しては、
現在時間外手当てをもらっている人は当然反対するだろうが、
それはカネが欲しいからだけではないのだと思う。
お金をもらうことで、自分の時間外労働を認知してもらう、
そこにささやかな労働の成果を確認して自分が

       「何者かに隷属しているだけではない」

ことを確認する、
その誇りの問題がそこにはある。

 日本で、アメリカで、社会の基本的な部分を支えている勤労者、
専門職が誇りをもてない時代が来ています。
そのことが、社会を暗くし、若い人に希望を持てなくしているようにも思う。
今回の事件を契機に、そんな風潮を断ちきることはできないだろうか?

       「正確さを求める日本文化が招いた事故」

海外ではこう解説されている。
アメリカではまるで「これまでの日本を見てきたような」解説。
正確的には、

      日本ままだまだ世界に理解されてはいないと言うことだ。